喜多川歌麿 (きたがわうたまろ)
武州川越の産にして、早く父を失ひ、少年時代に母と共に江戸に来りしものならむと云、夙に石燕に師事して出藍の譽れあり、画名を豊章といひしが、天明二年頃より歌麿と改めた。版元蔦屋重三郎方に寄寓せしこともある。彼が女性観は徹底的にして、些細の動作を写せしものにも無限の情調を漾はしむる所あり、正に「美人画の天才」の名実共に相備はれるものと謂ふべし。彼は、文化元年「太閤洛東五妻遊観」(三枚続)を画きて罪せられ、入牢及び手鎖の刑を受け、大いに心身に打撃を蒙りしにや、その後幾年ならずして遂に他界せり、法名、秋円了教信士、浅草北松山町なる専光寺(浄土宗)に葬る。