三代目歌川広重 (さんだいめうたがわひろしげ)
安藤氏、本姓後藤、歌川を称す、名は徳兵衛、一立斎と号す、弘化二年十二月生る、父を後藤武平という、初代広重の門人なりとした。彼に同門の二代広重(後に立祥)が慶応元年安藤家を去るに及んで、それに替りて師家の後を継ぎ、初代の俗称(徳兵衛)と一立斎の号を襲用し、且つ自から二代(実は三代)広重を名乗りしなり。而して、稀には落款に「歌重」とせし例もあり。居所、中橋大鋸町四番地(九年十月)より、京橋弓町十八番地(明治十一年)・南紺屋町二十七番地(明治十二、三年)などに転住す。法名、功隆院機外立斎居士、浅草北松山町東岳寺に葬る。彼の作品は、明治文化史料として見るべきもの甚だ多し。