葛飾 北斎 (ほくさいかつしか)
号 | (約50の号が知られたが一番勇名なのは):画狂人、卍老人、菱川宗理など |
流派 | |
生没年 | 1760 - 1849 |
時代 | |
活動拠点 |
葛飾を称す、藤原姓、中島氏、もと川村其の子、四五歳の頃幕府御用鏡師中島伊勢の養子となる、後ち養家を離れしが依然中島氏を名乗れり、幼名時太郎、後に(十余歳の頃)鉄蔵と改む、自から葛飾の百姓、葛飾領の北斎などいへり、蓋し、其の生地本所割下水は、下総国葛飾郡に属せしが故なり。彼れ十四五歳の頃彫工某に就て木版彫刻の技を学び、十九歳の時(安永七年)其の業を廃して、勝川春章の門に入り、初めて画法を学ぶ。一説に春章の門下にありし頃、竊かに狩野融川に就て画法を学びしかば、春章の怒りに触れて破門せられしともいえる。彼は春章、融川に師事せし外、俵屋宗理及び堤等琳の画風を慕ひ、又、住吉広行に土佐風の画を学び、尚ほ司馬江漢の銅版画或は油画によりて和蘭陀画の一斑を窺ひまた支那画をも自修するなど、諸種の画法を研究して遂に渾然たる一家の風を成すに至れり。彼が夙に幼時より画筆に親しみ始めし事は、後年の自記に「己六歳より物の形状を写の癖ありて」云々(富嶽百景初編)、また「己六歳より八十八年読立し」云々(絵本彩色通初編)と云へるを以て証とすべし。次に彼が彫工としての唯一の記念品は、其が十六歳即ち安永四年版の洒落本『楽女格子』(雲中舎山蝶作)一冊のうち奥の六丁にして、平仮名交りの文字に彫刀の痕をとゞめたり。さて又、彼が版画の処女作は、安永八年(二十歳)八月に画きし細判の役者絵若干図あり、其内の岩井半四郎及び市川門之助の二図は既に存在を確めらる。それに続いて、安永九年正月(年月不記)出版の黄表紙『驪山比翼塚』は、挿画の処女作と見るを得べし。師春章より与へられし画名は春朗といひ、同時に勝川の画姓を許され、爾後寛政年間に至るまで使用せしが、一たびそれを改名して後は、画名と別号を変更すること数回に及び、旧名旧号中門人に譲り与へしものもあり、今其が改名及び改号の年代を示せば左の如し。
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揃物 諸国瀧廻り 1833年ごろ. 1860年代の再版画 А-30618 |