月岡芳年 (つきおかよしとし)
彼が父の名に就ては、凡そ四つの説あり、即ち、吉岡兵部・同金三郎・同織三郎・月岡爲三郎等にして、就中、金三郎は町医、爲三郎は幕府の御家人なりしと云ふ。芳年門下の一人山中古洞氏の説に拠れば、彼が戸籍面には、吉岡織三郎次男とあれど、実は吉岡金三郎(後に兵部と改む)の次男なりとぞ。彼の俗称は米次郎といひ、嘉永三年十二歳の時に国芳のもとに入門せしなり。玉桜楼・一魁斎・魁斎・咀華亭等の別号あり。また明治五六年の頃に強度の神経衰弱に罹り、六年末には全快、其の時に「大蘇」の号を用ゐ始む。夙に菊池容斎の画風を慕ひて、専ら歴史上の人物を画くことを得意とせり。又洋画を折衷して新機軸を出だせし所尠からず、錦絵、草双紙などの外に新聞の挿画にも従事し、大いに技倆を示して世の好評を博したりき。
頁
揃物 芳年武者无類 1886年 А-18772 |