菊川英山 (きくがわえいざん)
英山は初め父(英二)に画を学び、後ち鈴木南嶺の門に来て、また、北渓と親交もあり、ひそかにその画風を慕って、多少北斎流を折衷した。彼は早熟の人にして、享和年間十六七歳の時に初作(役者絵)を発表し、文化四年すなわち二十一歳の頃には一流の版画家となれり、描く所は美人画最も多く、とくに小児を題材にしたもの少ない。文化初期の美人画は、初代歌麿晩年の風に酷似する。『江戸大節用海内藏』二冊(文久三年完成)の挿画を描く。門人数名中、渓斎英泉は最も著い。
英山は初め父(英二)に画を学び、後ち鈴木南嶺の門に来て、また、北渓と親交もあり、ひそかにその画風を慕って、多少北斎流を折衷した。彼は早熟の人にして、享和年間十六七歳の時に初作(役者絵)を発表し、文化四年すなわち二十一歳の頃には一流の版画家となれり、描く所は美人画最も多く、とくに小児を題材にしたもの少ない。文化初期の美人画は、初代歌麿晩年の風に酷似する。『江戸大節用海内藏』二冊(文久三年完成)の挿画を描く。門人数名中、渓斎英泉は最も著い。