プーシキン美術館所蔵浮世絵コレクション(18-19世紀)

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役者絵

浮世絵とは、江戸時代の町人の日常生活を描いた絵のことです。「浮世」という語は、昔の仏教用語の一つで、「はかない世」、「苦界」、「無常の世」という意味でした。十七世紀末、「浮世」という語は、喜びと楽しみに満ちたこの世、現世のことを意味するようになりました。日本の版画、浮世絵は、十八世紀末に開花しました。浮世絵の主人公は、遊女、役者、相撲取り、戯曲の登場人物、歴史上の英雄、つまり第三身分の代表者たちでした。そして各々に、次のようなそれぞれのジャンルが生まれました。すなわち、「遊郭」の美女の像、役者の肖像や歌舞伎の舞台の場面、神話や文学が主題の絵、歴史上の英雄の絵、有名な侍たちが戦う合戦の場面、風景画、そして花鳥画などです。

歌舞伎は都市生活における最大の娯楽の一つでした。江戸、大坂、京都などの大都市では、様々な歌舞伎の一座がほぼ、ひとつ所で興行していました。芝居の人気の高まりは、芝居関連の版画のジャンルの発展を促します。ポスター、上演日程表、解説文入りプログラムなどの興行に関連する独特のスタイルの版画が出版された一方、役者自身の姿を描いた版画が人気になりました。芸者と同じく、役者も流行の作り手でした。見る人の関心は、様々な役を演じる姿だけでなく、役者の楽屋での姿、舞台裏にも向けられました。 

十七世紀末から十八世紀初頭にかけては、鳥居派が隆盛しました。そのリーダーが鳥居清信(とりいきよのぶ)(1664–1729)でした。鳥居派の絵師たちは歌舞伎を主要な主題にして、役者の一枚絵を描き、芝居小屋に関連する木版画(プログラムや上演日程表など)の出版を行いました。鳥居派の絵師は木版画の新しい技法(紅絵、漆絵)を積極的に用いました。鳥居清信の弟子の中では、鳥居清倍(とりいきよます)(1694–1716)と鳥居清光(とりいきよみつ)(1735–1785)がもっとも有名です。この派の絵師たちは、単身像、または二人か三人の役者を、芝居の「決め」のポーズで中間色の背景に描く独特のスタイルを生みだしました。鳥居派の絵師にとって重要だったのは、芝居小屋の雰囲気を伝え、芝居のクライマックスを演じる役者の姿を描きとめることでした。

浮世絵の歴史上、孤立した存在が、東洲斎写楽(活動期1794–1795)です。有名な版元、蔦谷重三郎の工房から、数か月の間に、この絵師の手になる、様々な役に扮した歌舞伎役者の絵が百四十点以上、出版されます。その後、写楽は忽然と姿を消してしまいました。彼の作品はみな、非常に卓越したものでした。グロテスクぎりぎりの強烈な特異性、プロポーションや身振り、顔の輪郭などを意識的に誇張・歪曲することによって、人物像に類いまれなる豊かな表情を生みだしたのです。謎に満ちた天才絵師、東洲斎写楽は、故意に顔を誇張して描く役者絵のスタイルを創り出し、役者絵を一変させました。厚く塗った舞台化粧の下からふと覗くのは、描かれた人物ではなく、作者自身の顔なのです。

写楽に続き、半身像である大首絵を制作したのは勝川派の画家たちでした。十八世紀の後半、勝川派は役者絵のジャンルで指導的地位を占めます。勝川派の創立者である勝川春章 (1726–1792)は、役者絵を発展させ、二つのタイプを導入しました。一つ目は、舞台の幕を背景にした役者を静的なポーズで正面から捉えた肖像、二つ目は、観賞者を想定していない、親密な雰囲気の楽屋裏での役者の姿です。舞台化粧の仮面の裏の役者の世界を見ようとする試みは、勝川派の他の画家たち(勝川春潮かつがわ しゅんちょう、勝川春英 かつがわ しゅんえい)や、その同時代人たち(一筆斎文調(いっぴつさいぶんちょう)に共通する特徴です。

十九世紀にもっぱら役者絵を描いたのは歌川派でした。初代歌川豊国 (1769–1825)は、十八世紀末から十九世紀初頭に歌川派を率い、中間色の背景に役者の全身像を描き、版画においても同様にその名をとどろかせました。十九世紀前半に派を率いた歌川国定 (1786–1864) は、複雑な構図の版画を制作しました。このことは歌舞伎の舞台美術の発展と関連があります。舞台美術は複雑化し、遠近法や、トリックやだまし絵的な効果が用いられるようになっていました。歌川国芳(1797–1861)は、同流派の同じく指導的な画家で、最初は役者絵を描いていましたが、その後、合戦場面や武者絵を描いて、その名をより高めました。