プーシキン美術館所蔵浮世絵コレクション(18-19世紀)

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美人画

浮世絵とは、江戸時代の町人の日常生活を描いた絵のことです。「浮世」という語は、昔の仏教用語の一つで、「はかない世」、「苦界」、「無常の世」という意味でした。十七世紀末、「浮世」という語は、喜びと楽しみに満ちたこの世、現世のことを意味するようになりました。日本の版画、浮世絵は、十八世紀末に開花しました。浮世絵の主人公は、遊女、役者、相撲取り、戯曲の登場人物、歴史上の英雄、つまり第三身分の代表者たちでした。そして各々に、次のようなそれぞれのジャンルが生まれました。すなわち、「遊郭」の美女の像、役者の肖像や歌舞伎の舞台の場面、神話や文学が主題の絵、歴史上の英雄の絵、有名な侍たちが戦う合戦の場面、風景画、そして花鳥画などです。

美人画は浮世絵の主要なジャンルの一つです。美人画(文字通り、美人を描いた絵)の由来は、十七世紀中葉にさかのぼり、日本の風俗版画にあります。江戸や大坂などの大都市の発展に伴って、伝統的な祝いごとの光景や町人たちが娯楽に興じる場面が町の画家である町絵師によって、巻物や屏風に描かれるようになりました。これらの絵の中心人物は、派手な装いをこらした町の洒落者や粋な若者でした。十八世紀の初頭からは、縦長な掛物の絵を真似て縦長の寸法の版画(柱絵)が出てきます。そこに描かれたのは、美しく装った遊女の全身像でした。

この版画では、手描きの模様と刺繍の入った流行の着物、手の込んだ髪型、目を引く装身具などのほうが、美人像そのものよりも重要なことがしばしばでした。概して版画に描かれたのは、どの都市にもあった遊郭の遊女たちでした。その好例が、江戸の北部に位置し、隅田川を挟んで中心部の対岸にあった吉原です。 

春に桜が咲く頃、芍薬が咲き誇る夏、そして菊が薫る秋の年に三回、吉原では最も魅力的で人気の高い美人たちが、中央の仲ノ町通りを練り歩く行列が催されました。「花々」の行列が終わった後に、高位の遊女である「花魁」が(このように遊女を芸術的に呼んだのですが)、妹分の禿(かむろ)や新造を従えて、通りを豪華絢爛に練り歩く肖像画が出版されました。

美人を描く「美人画」というジャンルの形成や、一枚の観賞用版画である「一枚絵(いちまいえ)」の出現には、菱川師宣が関係しています。

十八世紀前半、浮世絵の最大流派の一つとなったのが、懐月堂(かいげつどう)の一派でした。この流派の画家たちは、派手な着物をまとった遊女の全身像を中間色の背景で描きました。その絵は、遊郭に住む人気者や名高い美人を宣伝する役目をおのずと果たしました。

遊郭に住む人々に対する関心が町人たちの間で非常に高かったため、室内の美人の姿を一日のさまざまな時間で捉えた絵がすぐに制作されるようになりました。理想とされる女性の美しさも時代とともに移り変わっていき、懐月堂派の大柄な美人に替わって、十八世紀の後半は鈴木晴信と磯田湖竜斎(いそだ こりゅうさい)が描く、小柄で若い少女たちが好まれるようになりました。十八世紀から十九世紀の境目には、喜多川歌麿と鳥居清長の版画のような、より年上の美人がふたたび好まれます。親密な室内空間で描かれた全身像のほかに、「大首絵」、或いは「大顔絵」という胸から上を描いた半身像が流行しました。このことは画家の関心が主人公の内面を伝えることにあったことを示しています。

喜多川歌麿(1753–1806)は、もっとも高名な浮世絵師の一人であり、開花期にあった日本の古典的な木版画の特徴を多く決定づけました。彼に手になる見事な画帖や一枚絵の連作の数々は、有名な版元、蔦屋重三郎との長年に渡る共同作業のたまものでした。歌麿を有名にしたのは、何といっても芸者の半身像であり、また風俗画の組物、絵本、そして恋人たちを対で描いた揃物でした。もはや、芸者や茶屋の女たちだけでなく、日常の仕事にいそしむ、市井の庶民の姿も描かれるようになったのです。

この時代の画家たちは、母と子、伝説的な恋人たちなど、人と人との間に結ばれる関係により興味を抱きました。

十九世紀前半に活躍した喜多川派の画家たち(英山、英泉)の版画では、豪華な衣装の美人が描かれました。その身体は着物の襞で全部覆い隠され、紋様は鮮やかな色で平面的に描かれ、線は切れ切れになったり、断ち切れたりしています。